世界の中心は桐谷さくら

ママでもなくサラリーマンでもなく妻でもなく私

じーちゃんが私を忘れた話と人生の有限感

ちょっと前にかなり高齢の祖父がゆるやかな脳梗塞を発症しました。

その後リハビリを行い自宅に戻ることになったのですが、記憶と認識に障害が残りました。

具体的には自分の年齢を30代の働き盛りと思っていたり、顔を見てもだれかわからない人もいたりします。

今まで好きだったパソコンで将棋を打つのも嫌になったり、嗜好も変わったみたいです。

母からそんな話を聞かされていて、実際どんな状態かを見るために久しぶりにじーちゃんに会ってきました。

 

まず会って早々私のことはわからないようです。

自分は30代だと思っているので、「さくらだよ!ひ孫が生まれるよ!」と伝えても、はて?って顔をして今は中3じゃないのか?と言ってきました。

もはや、誰と勘違いしているのかもわかりません。

ただ30代当時の記憶ははっきりあるようで、自分が勤めていた会社名を言ったり、タイムカードがどうのとかいってます。

 

次に近くにいた叔母に話を聞いたところ、一応自分の子供(私の母世代)のことは記憶にあるようだが、今の年齢(全員50代)を伝えると、そんなことないだろ!と言い返したと言っていました。 

おそらく私と一緒に母もいましたが、顔を見ても認識できていなそうでした。

 

じーちゃん本人は頭の中は30代の働いていたころですが、体はしっかり80代だし、なんなら脳梗塞の後遺症で支えがないと歩くのも危ない感じです。そのギャップがまだわかっていない?のか、わかった上でそれでも歩きたいのかわかりませんが、歩こうとしてよく転んでい流みたいです。

 

最後にもうすぐ産まれるよ〜といったらお腹をなでなでしてくれたのですが、その際にすーっと手が上の方に伸びてきました。その手を私の母がピシャッとはたいて、帰るよ!といって帰ってきました。

どうやら、若干の色ボケ?的なのもありそうらしく、何か起こる前に手をどかしてくれたみたいです。

 

脳障害によるボケが発生したのは初めてだったので、ある部分ははっきり記憶があり、また別の部分はすっぽり抜けてしまうなど、独特の記憶障害に驚きました。

また真面目な塊みたいな人だったじーちゃんに色ボケという新たな一面がでてきたことも、非常に驚きました。

日々近くで接している母は、じーちゃんのこのような状態に大変ショックを受けております。ただ精神的にショックを受けていながらも、それを受け止める間も無く介護作業が発生しているという状態です。

じーちゃんの周りには複数人親族がいて面倒を見ており、また排泄関係は今まで通りとはいかないみたいですが、食事は自分で食べているようなので、今後どうなってゆくかわかりませんがその辺りは幸いだったかなと思います。

 

私自身はとても不思議な感覚になっています。

不安で大変そうな母には大変申し訳ないけど、新しい発見というか学びというか、世の中的に大きなテーマである高齢化社会や介護の問題をじーちゃんと母を通して勉強させてもらっている気分です。

退院後の顔つきの変わったじーちゃんを見て、人が老いてゆくということ、記憶を失っていくということの現実を一つ垣間見ることができました。

 

身近な人やよく見ていた有名人がお亡くなりになったときのような「人生の有限感」を感じるのです。

そして誰かが亡くなったときとは大きく感じ方が違うのは、命の有限だけでなく、体や脳もいつまでも今までどおりじゃないんだという行動可能時間の有限感を感じます。

きっと話を聞くだけではこの感覚は得られなくて、じーちゃんに会うことで私の体にジーンと響いてきました。

この「人生の有限感」は私の行動の強い原動力になるのですが、自分で意識してコントロールすることはできないんですよね。

人生は一度っきりとか、死んだらおしまいだーとかゆうけど、私は平時にこの感覚を自分で持つことはできてないなと思います。

だからきっとまた時間を見つけてじーちゃんに会いにいくと思います。

 

妹は変わったじーちゃんを見たくないのか、すごく近くに住んでいますが会いにはいかないようです。その気持ちもわからんでもありません。むしろ私も正直な気持ちは妹と一緒な気がします。ただ、なぜかいかねば、見に行かねば、、、という使命感を感じるのです。

 

なんだか取り止めもない記事になりましたが、この驚きと気づきを文章に残しておこうと思いました。

 

ばーいちゃ